はやしばだよ

はやしばだよ。

創作に対する所感

 こんにちわ。俺の名前は『はやしば*1』だ。こちらの記事はUEC Advent Calendarの6日目の記事になります。

 前日の記事はaskjfbdさんで『今からTyped RacketのType Checkerを分からせます(多分こっちが負けます) - askjfbdの第二のにっき』でした。俺は全く分かってやれなかった。プログラムの関数とかもうすっかり忘れてる。大変申し訳ない。申し訳ないしせめて船長については触れようと思ったんだけど俺はにじさんじ箱推しでホロはあんま追えてないから船長のことは光彦君のモノマネしてた人としか覚えてないんだよなあ……申し訳ねえなあ……。(そもそも船長の認識はあってるのだろうか。不安。)

 さておき、本題に入る、前に謝っておくことが一つ。タイトルが若干変わってる。

 創造  創作

と変更しています。申し訳ない。

 お詫びを入れたところで早速、俺の考えを開示していくが、一つ注意を。考えを思いついたはしに書いていく。だから記事全体が論理立ってない。散文に近く、読みにくいと思う。

 それでも良ければご覧いただきたい。俺が『創作』に何を思っているのかの一端を。

 

 ――そもそも創作とは何か。それは独創的で他にはない何かを新たに作り上げる行為に他ならない。小説、絵画、漫画、動画、彫像、音楽、舞踊、ハードウェア、ソフトウェアと細かく上げればキリがないようなその他諸々もだ。

 人の手によって作られたモノのだいたいが創作物であると言ってもいいだろう。しかし独創的で新しいモノという条件が特に目に見えやすいのが芸術作品であるため創作=芸術と見えやすい。けれどもこの記事を読んでいるのに使っているモノ――スマートフォンかもしれないし、PCとそれに接続されたディスプレイやマウスかもしれない――もまた創作されたモノだ。

 人が使っているものは数多の人の手で使えるようにするため、渡るようにするため、使えない部分をそぎ落とし、同じ形を増やすから普遍的なものになる。一つの漫画や小説が同じ形でどれだけの数あれど、それが一つの創作であると認識できるのと同様だ。

 では、つまり創作とは何か。それは独創的で他にはない何かを新たに作り上げる行為であり――そして非常に概念的な行為なのだ。

 それ故に創作は極めて難しい。しかし非常に簡単に見えてしまう側面もある。

 

 ある人が作ったものを見て、見知らぬ誰かが言う。『こんなもの、誰にだって作れる』と。シンプルな見た目のモノほど――用いている技術がありふれているか目に見えていないほど、そう言われがちだ。

 皆さまはどこかでこんな話を聞いたことはないだろうか。ある鍵屋さんの話だ。鍵屋がまだ未熟で、開錠に長い時間をかけてた頃はよく感謝されていたが、技術が向上し開錠するに時間が短くなるにつれて料金をケチる人が増えるようになった、という話だ。

 今のは創作とは少し違う話だったが、本質は似通った話だと思う。どうにも技術というのは誤解されがちだ。なぜなら用いる人間以外の目にそれは見えない、分からないからだ。分かる方が稀有といってもいい。逆に用いる人間には使っている技術を見て、もっと別のことが見えている(のかもしれない)。その人がその技術にどれだけ身を捧げたか、とか。まあ、どれだけ言っても憶測でしかないのでこの話はここで打ち止めだ。

 技術は見た目では分からない。そして、創作もまた見た目で全てが分かるものではない。場合によっては技術以上に誤解をされる。なぜなら前述したように創作は技術的なものに加えて概念的な行為だからだろう。

 もっとも分かりやすい創作の概念的な行いというのは、つまるところ表現だ。モノに意図を持たせる。それを見る誰かに、何かを感じさせるということ。それが真に何を意味するかは作った人間にしかわからない(もしくは作った人間も)。

 そうやって作る人間が考えて、意図して、思索して――その果てに創作は巡り巡って単純な構造になることもある。子供の落書きのような滅茶苦茶なものになることもある。しかし、そこに創作者がどれだけの思いを込めたとしても、どれだけの時間をかけたとしても分からない人間には全く分からない。『え? こんな落書き(ガラクタ)俺でも作れない?』と冷笑する。じゃあやってみれば? と言えば『こんなのやる価値ない』だとか『時間の無駄だ』とかいう。結局無関心なだけだ。ぶっとばすぞクソが。

 まあ、つまり、そういうことだ。創作にどれだけ複雑で高尚な技術を用いても、分からない人間が見ると、自分が分かるように単純に見て、考えてしまう。そしてその人の理解に当てはめた結果、簡単に思えてしまうのだ。

 

 見る側の無理解、無関心が創作を簡単へと貶める。なら、理解と関心があれば創作は全て理解できるのだろうか? ぶっちゃけ答えは全く否である。なんなら実際に創作する人間にも他の人の創作の全部は分からない。なんなら全く分からない。俺も分からない。

 ただ、持ちうる技術の多さや想像力の深さから、創作が持つメッセージのようなものをいくらか受け取ることはできるし、決して無関心にはならないし、簡単なものだとも思わない。

 この絵にはなんでこんな色を使ったのか。この映画にこのシーンは本当に必要なのか。このロボットに使われた部品の形はそれでいいのか。――それが何を意味しているのかを考えることができる。そしてそれそのものが、創作の醍醐味でもある。関心が創作の鑑賞の肝だ。

 

 そしてもし、『俺ならこうする』と考えた末に、実際に行動に起こしたら、それは創作への第一歩だ。

 

 二次創作というものがある。元々ある創作物から派生して創作する行為だ。オマージュやパロディといったものもそれに該当する。これ自体は歴とした創作の一つだ。独創性に欠けるようでいて、新たな理念や考えを吹き込まれたそれは独創性を持った新たなモノだ。

 二次創作は一から創作するより楽なものだ。元々ある形を、自分の好きな形にする行為だからだ。ゆえに非常にシビアな立ち位置にある。自分の創作をあまり歪めてほしくない人もいる。勝手に利益を得る行為はなんなら法に触れる。しかし、本当に無から湧いて出た創作などどこにもない。――そのことを、創作する人間の大半が理解している。

 創作の始まりは創作に触れ、そして創作に対して答えを出すことにある。前述した『俺ならこうする』だ。きっと創作する人の多くはそうしてきた。通ってきた道なのだ。創作に触れてみて、創作をしてみたくなる。そうして創作をしようとしたとき、自分の内にあるのは、触れてみた創作が多くを占めるのだ。だから、創作の始まりは触れてきた創作を模倣し作り変えることになる。ゆえに創作するものは二次創作に対し色々な感情を抱きはすれ――目に留まらなければ黙認してくれる。(二次創作の内はできるだけひっそりやれ。)

 本当に一から始まった創作など人間が人間になった時以来ないだろう。なんなら、その時ですら人間は自然に教わっている。自然から思いついている。いや実際のとこどうなのかなんて知らないけど。ただ人間の歴史が記された頃からもはや創作は創作の上から成り立っている。というか何もかもがそうだ。作られた何かの上に立って生きて、その上に何かを作り上げてんだ。創作をばかにするんじゃねえぶっ飛ばすぞ。

 

 そろそろ収集付かなくなってきたしそもそも大幅遅刻してるしなんかいい感じに締めよう。

 

 創作には真摯に向き合うのがいい。それは(痛烈な悪口にならなければ)理解できない部分を抽出して口に出すだけでもいい。なんでここはこんな風にしたのか。それが持つ意味がなんなのか。そうしていくうちに疑問が内に渦を巻き、無関心でいられなくなる。そうするとやがて自分の中に答えが出始める。そうして嗜好が深まる。理解の幅も広がる。

 そしてできることなら創作そのものに手を出してみてほしい。見えるものがもっと広がると思う。

 

 ――と、言ってみたけど、Advent Calendarに記事寄せるやつらしかどうせ見ないんだから、見てる君たち全員もれなく創作する側だわな! わはははは!

 

 以上。散文遅刻すみませんでした。

 

 明日、七日目の記事はKeiuお氏の『今更Hack U 2019 FUKUOKAについて』。Hack Uは自分たちで企画して作ったものを発表するイベントのようだ。模倣、二次創作を超えて自分たちの創作を持った人たちが集まる……純粋にすごいと思う。どんな話が聞けるのか楽しみだ。

*1:15k。1浪。1留中。2留目確定済み。GL寄りのカプ厨。物語を書いてた時がちょいちょいある